綿ぼうし】は「タンポポ通信」のコラムです


第1号
7月7日 織姫と牽牛が出会う、一年に一度の日。子供の頃、願いを書いた短冊を笹の葉にぶら下げた。お天気でなければ会えない二人の恋なのに、梅雨前線はいつも無情にやってきて動かない。それでも一年に一度の出会いを大事に一年間を懸命に生きる天のカップル。その目に今の日本はどんなふうに映るのだろう?◆豊かさの追求は人間の本能である。心と物の豊かさにバランスがとれている健全さがあれば問題はない。 世紀を目前に人々はようやく物質的豊かさとひきかえに失った心の豊かさを知りはじめたようだ。◆今、日本は有史以来初めて庶民の幸福と安全に向けて政治家が努力を始めたように見える。たとえば、奨学金の所得制限廃止、臍帯血バンクの設立や、学齢前の乳幼児の医療費無料化、ガイドラインなど、あらゆる人々の生きる権利を守る政策の実現である。◆無責任なマスコミは梅雨前線のようにいつも人々の頭上に暗雲としてたちこめ、真実を知らせまいとする。公明党とともに歩み始めた「国民の幸福のための政治」は遅々として進まず、悪意と非難にさらされる場合が多いかもしれない。でもけっして嘆かず、明るい笑顔と大きな声で語り続けていくことだ。◆雨雲の上にも星々はあって、織姫と牽牛は毎年必ず出会っている。雨の日も風の日も、地域の方のもとへ足を運ぶ政治。単純だが宇宙の軌道をゆくごとく、ロマン多く、壮大なことかもしれない。


第2号
 「うさぎ、うさぎ、何見てはねる、十五夜お月様、見てはねる」。今年の仲秋の名月は九月二十四日。大都会で、その満月を感慨深く仰ぐ人はどれくらいいるのだろう?ビルの乱立する東京の空は余りにも小さく、ロマンの心は遠ざかっている◆この月のように「遠く」に思えていた公明党の政権参加が、現実のものとなろうとしている。内外に大きな波紋を広げながらも、公明党は確実に次世紀への「日本丸」の舵取りとして歩み始めた◆企業と組合労働者との狭間(はざま)に振り落とされ、苦しみきっていた庶民のために立ち上がった党。長雨が続けば、トマトやきゅうりが高くなることを知っている議員。子どもたちを薬物(覚醒剤等)から守るために、中傷を怖れず「通信傍受法案」を成立させた。現実に生きている社会を変革するためには、まず社会の現実を見つめることから始めるべきだ◆三十年前、人類は初めて月に降り立った。月面車のあらわな映像は、月のうさぎの「おとぎ心」を破壊し尽くしたろうか。むしろ人々は、意想外の月の現実に、更に好奇心をそそられ、宇宙へのロマンを広げたのではなかったか◆現実を見つめる。現実は、醜く、厳しい。だからこそ、ファイトがわく。解決への展望のロマンが始まる。そのために政治家は、心強く、わが哲学と信念の道を、毅然と進まなければならない。仏法という普遍の哲学を根底にもつ公明に、期待が高まるゆえんである。


第3号
 「地球は子どもからの借りもの」。第三の千年紀の開幕に、このケニアのことわざを、よりいっそう重く感じる。心ある誰もが「明日」と「未来」を考える時だから◆最も身近にある未来。それは子ども。未来を大切にするとは、子どもを大切にすること。その課題を政治は、どれだけ実行しているのだろう◆年末の塾帰り、木枯らしに鼻をすする小学生らのやりとり。「お年玉もらったら何買う?」「あんまり買えないよ。不景気だもん」「商品券(地域振興券)は、ごつかったでえー。マウンテンバイクこうてもろたあ」「毎年もらえるといいのにね」◆公明の政策には、賛否両論の「否」ばかりが意図的に報道される。だが、一例として、地域振興券が、景気回復に少なからぬ効果を発揮したことは明らか。それは、心に曇りのない子どもたちが、一番良く知っている◆連立政権発足以来、重要法案が続々と成立・施行に向かっている。年金や介護の改革法案、政治献金規制法など、いずれも「未来」にとって必須のもの。ずるずる課題を先送りすれば、それだけツケは未来、つまり「子ども」の負担になる◆今の政局、大半が公明党の主導で動く。それを快く思わぬ筋もある。しかし目先の利益や世間体にとらわれて改革はできない。「今、本当に大切なことは何か。そこを見極めた「行動」こそ肝要だ◆子どもたちに、借金ではなく、本当の「お年玉」をあげられる社会を!政治は、今こそ、未来を見つめなければならない。


第4号
 空を翔け地に降り、光舞う一夜を心に映す夏の風物詩・花火大会が日本中でたけなわだ。美しいものを愛でる心はすべての人に通じている。逆もまた真。醜いものは、誰もが厭(いと)う◆大手乳業トップの油断から起こった今だかつてない規模の食中毒。利権とポストに群がる政治家の相も変らぬ無節操……競うように起こる少年の犯罪は、ごまかしや無責任を野放しにしてきた大人社会に対する、子供たちの憤りであり絶望のうめきにも聞こえる◆マスコミの対応もむごい。犯罪に走った子供のプライバシーを素っ裸にするまで、人権侵害の取材・報道を繰り返す。あるケースでは、母親にのみ教育責任をかぶせ、社会全体の責任には頬かむりを決め込む。これでは、ますます、母も子も救いようがない◆この母と子の問題に光を当ててきたのが公明党の変わらぬ基本政策である。それまで政治は、一度も手を差し伸べてこなかった。抜本的教育改革・児童手当の拡充・夫の暴力に悩む妻への救済法・罰則を伴うセクシャルハラスメント法など、驚くべき速さで国会の議題にのぼっている◆その他、ストーカー禁止法やあっせん利得罪、大幅な公共事業の見直しなど、与党は次々と公約実現へ駒を進めている。ところが野党はといえば公約どころか、与党への批判に終始し、政策論争を避けているのかとさえ疑いたくなる◆花火は華麗である。しかし、裏方は汗みどろだ。だからこそ、見る者を釘付けにする。国会の論戦も、確かに華々しいが、大事なのは、政治家が政策実現へ、背後でどれだけ汗をかくかだ。花火を見ながら、背後の職人の熱闘を謝す「心」と「眼」。それが、有権者に最も必要なものではないだろうか。


第5号
 ある法律の条文である。「役人は飲み食いのむさぼりをやめなさい」「朝早く出勤し、夕方は遅く帰宅せよ」「自分が正しいと思っても、あえて民の意見を聞き、民に従って行動しなさい」。まるで現代の法律みたいだが、実は、聖徳太子の「十七条憲法」の一部である◆ふつう法律は「こうせよ」「するな」と、民衆に強(し)いるものと思っていた。ところが「十七条」は民の、ではなく、全項目が「役人の」在り方を定めた法律だ。世界でも唯一の憲法という。あらためて、すごいと思う。千四百年も前に、どうしてこんな民主的な国法ができたのだろう◆それは、仏教を根本思想としていたからだ。仏教は、あらゆる生き物の「終帰(よりどころ)」であり「万国の極宗(おおむね)」と、太子は語った。これほどの「哲人政治家」は、世界史を見ても、めずらしい◆あらゆる分野のリーダーが、どんな哲学を持っているか。ますます、問われる時代である。キャリアと呼ばれるエリート役人や政治家の腐敗も、結局は価値観の貧しさから来るお金や出世、快楽を第一とした人生の末路だ。英語で公務員はパブリック・サーバント(民衆のしもべの意)という。今、その哲学が忘れられている◆過日のハンセン病訴訟に対する小泉内閣の控訴断念に至った背景には、「坂口厚生労働大臣が医師として人道を優先すべきと終始患者側に立ち、辞任覚悟で控訴断念を貫いた。」との報道があった。◆その行動が小泉首相の英断を実らせたのではないだろうか。物静かな印象の坂口大臣だが、いざという時の政治的判断・政治哲学に拍手を送りたい。◆「何事も真心をもってせよ」との太子の哲学が現在によみがえったように思われる。


第6号
  平和への願い 「平和ほど尊きものはない」 ▼ある小説の冒頭の一節だが今ほどこの言葉の重みを感じさせられる時はない。戦争の世紀といわれた二十世紀を見送り、新世紀こそは平和の世紀にと地球上の誰もが希望を持ち願ったことであろう。▼悲しいことにその人類の願いもむなしく、あの世界中を震撼とさせたアメリカでの同時多発テロが二十一世紀の幕開けとなった。今なお見えない敵に対し恐怖を覚えるが、それ以上に恐ろしいのは為政者の権力欲と傲慢である。なぜならば悲惨な戦争をくりかえすのか平和への道を切り拓いていくのか、いずれにしてもそれはひとりの人間の心が決めるものであるから。▼広島市の秋葉忠利市長は五十七回目の平和記念式典において、同時多発テロ以降の国際情勢を踏まえて、アメリカのブッシュ大統領に対し「広島、長崎の被爆地を訪問し人類としての記憶を呼び覚ませ」と訴えた。また核戦争や核兵器使用の危険性が高まり報復と強者の論理が世界の哲学になりつつあると指摘した。その上で、ケネデイ大統領の「地球の未来に必要なのはお互いの違いに寛容であることだ」との言葉を引用し明るい未来をつくるための協力を呼びかけた。▼先日「広島・長崎の人 々はあれほどの惨禍にもかかわらず報復の道を選ばなかった。戦争そのものを憎み、戦争そのものを絶滅しようと誓った。」との平和運動家の言葉にふれ、幼少期長崎で育った私の脳裏にたくましく生きる大人たちの笑顔が浮かび思わず頷いた。▼それは「戦争を放棄する」という憲法第九条の道である。この第九条こそが日本の最大の安全保障であり、「二十一世紀の平和と正義の課題」として世界各国が注目し讃嘆し始めた平和の道である。日本こそが戦争を根絶していく平和の立役者となっていくべきではないか。(万葉)


第7号
  下町と世界をつなぐもの イスラエル人の友がいる。先日の総選挙で彼女は、迷いに迷った末、対話派ではなく強硬派に投票した。頭では分かっていた。いかに軍備を増強したって解決なんかしないと。しかし二ヶ月前、職場へ向かう目の前でバスが爆発炎上した。その恐怖が脳裏から離れなか った▼平和な社会を……だれもがそう願う。それなのに恐怖の炎が収まる見込みはまだない。「戦争の文化」が世界を覆っているからだ。暴力の応酬、対話の不在、独裁的な政治……。それと戦う武器は何か。それが「平和の文化」▼先日、ある識者の提言に胸を突かれた。「等身大」の感覚こそ平和の礎という。世界戦略とか難しい議論ではない。例えば「一日1ドルか2ドルの赤貧生活を強いられている民衆の頭上に、一発百万ドル以上のミサイルが飛来する」という異常さを痛感すること。▼これは、えらい政治家よりむしろ大衆の感覚だ。母としての生活実感といってもよい。根本的には、この人間の「まっとうな」感性を世界に広げ、共有していくしかない。文化の革命である。しかも、この戦いならだれでもできる。庶民のクチコミ、女性のおしゃべりは最も強力な武器の一つだ。▼政治も「等身大」から始めたい。できることから変えていく。おかしなことは見逃さない。目の前の一人に手を差し延べる。マクロな議論も大事だろう。だが体温を失った政治はむなしいし、やがて滅びる。▼イスラエルやパレスチナの現実は遠い出来事に思える。しかし、それがこの下町の現実にもつながるとするのが「等身大」の感性だ。ゆえに叫びたい。青年の志をもつ者よ、今こそ平和のために勝利しようではないか。(荒海)